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by クレ カツヒロ ・ ロバート

アメリカの外科系専門医教育システム

 

アメリカで外科医になる


わたしは福岡県の山奥の田舎の出身で、町の雰囲気というか、家庭のそれも、勉強とはあまり縁のない幼少時だった。中学校までは遊ぶか運動ばかりしていた記憶しかない。高校になってあわてて少し勉強なるものを始めたものの、医者になろうなどとは考えたこともなく、ただ何とかしてこの田舎を脱出し、東京か、あるいはいきなり海外へ行けないものかと漠然と考えていた。

中学時代から世界中にペンパルがいて(インターネットのない時代)、英語で手紙のやり取りをしていたこともあり、「海外」に強いあこがれがあった。いろいろな理由で結局、東京都内の医大へ通ったが、しばらくすると目標がアメリカへ向かっていた。なぜアメリカなのかというと、いろいろ理由はあるのだが、私の学生時代もまだアメリカが世界の中心みたいな時代で、特に臨床医学は相当進んでいるという印象があった。

外科医になろうとしたのは自分の性格もあるが、当時「外科医ギャノン」というアメリカで1970年代に放映されたテレビドラマの本を読んで影響を受けたからだろうか。その後も「メイヨーの医師たち」などという本を読んではアメリカの医学はすごいなと感じ、特に外科医はものすごくパワーが感じられ、私にとってはあこがれになっていた。

私の場合は都会で育った英語の流暢な学生とはかなりの差があったので、どうすれば英語力をつけ、アメリカに行けるのだろうかと日夜考えていた。 医学校で高学年になればなるほど、日本の医学教育、卒後教育がアメリカと大分差があることがさらにわかり、勉強に拍車がかかった。実践的で効果的な方法としては、当時二十四時間やっている英語放送といえば、米軍のFENのラジオしかなかったので、とにかくそれをいつも聴く。大学の講義は自分で同時通訳して英語でノートをとり、試験の答案もすべて英語で書く。教科書はすべて英語のものを使うといった具合である。

幸いこうした努力が実って、日本での1年目の卒後教育(インターンという)は横須賀のアメリカ海軍病院で行うことができた。この病院はいまでもそうらしいが、当時はアメリカで臨床研修を受けたいと思う医師が日本中から応募していた。つまりそういう志願者で競争率の高い卒後教育プログラムだった。結局このアメリカ海軍病院在籍中に、アメリカの医師資格試験にも合格し、これでアメリカに行けるのかと思ったが、とんでもない、それからが大変であった。

1970年代はアメリカはベトナム戦争の影響などで国内の深刻な医師不足という状況があり、外国人医師は比較的簡単にアメリカで研修するチャンスが与えられた。80年代に入ると逆に医師過剰が言われるようになり、外国人へ対する締め付けが急に厳しくなっていった。アメリカでは当時から専門科ごとに入門する難易度が異なっていた(定員制のため)。 特にアメリカ人にも人気の高い外科系への入門は困難を極め、仮に試験の成績が良くても、外国人であるという理由でほとんど相手にされなかった。

私もアメリカ中の外科プログラムがある病院(300以上)に手紙を書いて、面接をしてくれないかと尋ねたが、良い返事は皆無であった。 結局翌年、私は臨床と基礎の中間分野である病理でニューヨーク市へ行くことになった。アメリカでは当時から病理学は臨床の一部と位置づけられていたが、私はそれほど病理好きというわけではなかったので、病理の臨床にはあまり熱が入らなかった。病気で亡くなった死体を解剖して、その死亡原因を明確にするのが病理の臨床である。当時ニューヨークの病院ではエイズが認識されつつある時代で、現在のような治療方法もなく、かかれば死を意味していた。

ニューヨークにはエイズの患者が多く、私が勤務していた病院でも例外ではなかった。そのころ私はエイズがそんなに怖い病気だという認識がなくて、解剖中に何度か手を切ったりしたこともある。そんなに好きでもない病理へどうして行ったのかといわれるかもしれないが、将来外科医になるためのことを考えれば、それ以外に方法がなかったからである。 病理という科は特に外科とのつながりが強く、病理の専門医になれば、まだ外科へ入れる道が残されていると考えたのだ。当時の私は解剖よりは、病理の研究、とくにエイズの研究に精を出し、何枚もの専門論文を書いていた。

研究室に朝5時前には出て培養などの実験をし、日中は病院で病理組織のスライド診断などの仕事をこなし、夕方からまた研究室へ入る日々の繰り返しである。特に神経系の病理に関心があったのでその方面の論文は多数書くことができた。おかげで4年間の研修が修了するころ、勤務先の医大から助教授として残らないか誘われた。しかし私の夢は外科医になることだったので、また一から外科のポジションを求める日々に追われることになった。 ところが病理医の専門医資格をもってしても、アメリカの外科研修プログラム(レジデンシーという)の門戸は狭かった。

途方に暮れていた時、内科へ行こうか(内科の方が入りやすい)と考え、面接許可の出ていたハワイ大学の内科へインタビューへ赴いた。そして、同じビルの別の階にあった外科の教授の部屋へに立ち寄り、一か八のつもりで押しかけインタビューを申し込む決行に出た。郵便では断られていたので駄目だろうかと思いながらドアをノックすると、たまたま教授が一人で部屋に在室中で、即席のインタビューを許可してくれたのである。

ドアをノックする。

「マクナマラ先生、失礼します。日本から来た、医師のクレと申します。」と申し出る。マクナマラ教授はハワイ大学の当時の主任教授で、大柄のアイルランド系アメリカ人である。 「入りたまえ」と返事がある。 中に入ると広い長方形の教授室の一番奥に大きな机があり、そこに教授は執務中であった。

「実は、私は何ヶ月か前に先生のところへインターンとして応募したく、履歴書を送ったものです。郵便で断られていることは知っているのですが、ちょっとだけお話だけでも聞いていただけないでしょうか?」と切り出した。

その頃、ニューヨークで4年間の病理レジデント(専門医プログラム)を修了していたとはいえ、英語でのインタビューにそれほど慣れていたわけではなかった。

「いいけど、どういうことだね」と教授は「こちらへ来い」というようなしぐさで手招きしながら返答する。 「ありがとうございます」と答えながら、教授の机へ近づき、1枚だけ持っていた予備の履歴書を差し出した。

その後の会話は今でもときどき夢の中で走馬灯のように現れることがあるが、だいたいこういう感じになる。

「わたしは日本の医学校を卒業後、横須賀にある米軍病院で各科ローテートするインターンを修了し、さらに東京女子医大の研修医を経て、ニューヨークのアルバート・シンスタイン医大にて外科病理、神経病理のレジデントを修了し、専門医となりました」と、教授の前に立ったままで述べた。

「病理の専門医か。どうしてまた外科に行きたいのだね?」と教授が聞き返す。 「いえ、私は最初から外科志望だったのです。しかし、ご存知の通り、アメリカでは外科の研修プログラムは人気があって、入れなかったのです。しかし、どうしても外科医になる夢を捨てきれなかったので、外科と密接な関連のある病理のレジデントになったのです」と淡々と述べた。

「FLEXは受けたのかね」と聞かれる。

FLEXとは当時あったアメリカの連邦医師資格試験のことで、わたしは高得点で受かっていた。

「なるほど、それで今日はどうしてハワイに来たのかい」と聞き返される。 「実はハワイ大学の内科のインタビューがありまして、本当は先生のところへ寄るなんて思ってもみなかったのですが、同じビルにオフィスがあるとわかって、つい足が向いてしまったのです」と述べた。

「外科のトレーニングは体力がないとできないが、君は日本での研修とニューヨークでの病理の研修で何年も費やしているが、大丈夫なのかい?」と聞かれる。 「もともと同年齢の同僚よりもかなり若く見られるし、体力も十分ありますので、心配ないと思います。何とかご考慮いただけないでしょうか?」

実際には以上のような会話を立ったままで、熱意をこめてすらすらと言えたことを今でも覚えている。 教授はにっこりしながら、こう述べた。

「多分君のポジションはあると思うよ」「日本への連絡先はこの履歴書にあるファックスでいいかい?」ときかれる。

当時はまだインターネットもない時代で、アメリカ側との連絡は電話かファックスしかなかった。 それから数ヶ月がすぎ、結局その後の連絡がなく、やっぱり駄目だったかと思い、すでに契約書にサインを交わしていたハワイ大学の内科の研修プログラムへ行くために、荷造りをほぼ終えていた。ハワイへ経つ直前のことである。すると、ある朝、電話がが鳴り、1枚のファックスが届いた。その時の事を、今でも鮮明に覚えている。

「ハワイ大学外科研修プログラム、マクナマラ教授より。ハワイ大学の卒業予定者で当外科へ入門する予定だったものが変更となり、空きが出来たので、当外科で研修したい場合は至急連絡をいただきたい」というものであった。

「ほんとに!」という驚きとともに、「どうしよう?」と同時に考えた。何故なら、ハワイ大学の内科プログラムの契約書に署名してしまっていたからである。アメリカでは雇用契約書に署名して解約する場合、本来なら大変面倒なことになる。幸いハワイ大学の内科の教授は事情を理解してくれ、改めて外科と契約書を交わすことができた。こうして、ハワイ大学の外科での生活が始まることとなった。

その後のきびしい臨床研修の日々のことは拙書「ビバリーヒルズ流アンチエイジング」にも記したが、例えば、36時間連続勤務の後、手術室で鈎という器具を開腹手術中に立ったまま保持しながら助手を努めるのだが、睡眠不足で居眠りしそうになると、反対側に立っている教授から足蹴りが入ったこともある。

英語力の問題や、それまで患者を実際に診る診療科の研修をあまりしていなかったので、回診のときのプレゼンテーションも下手で、また仕事の要領も悪く、他のレジデントに付いていけそうにないと感じた。 そうした中、同じハワイ大学の内科にお願いして、試験的に内科の研修をさせてくれないかと願い出た。内科には以前行くといっておきながら、直前に契約書を白紙にしてもらった経緯があるので、気まずい思いでお願いしたら、外科の部長と内科の部長が話し合って、許可が出た。

内科なら少しは楽だろうと思ったが、今度は一日中病棟で患者と向き合って診療したりする時間が多く、やはり自分は手術室の中で手を動かしていたいと強く感じ、3ヵ月後、また外科へ戻して欲しいと願い出た。今度は内科の部長が怒った。しかし、これも何とかお願いして、外科へ戻った次第である。

その後は、私は命がけで仕事した。朝4時には病院へ行って、自分の回診をするようになったのである。早朝だから、患者はまだ寝ている。暗い病室のなかで、小さな声で「ハロー、グッドモーニング」と声かけながら、一人ひとりの患者を起こすのである。そして全身状態をチェックして、検査結果を自分なりに判断して、オーダー(看護師などへの指示)を書く。それを大体6時以降にやってくる患者の主治医に見てもらう。チーフレジデントの回診は6時からあるので、それまでに私の受け持ち患者を全員見ておく必要があった。

そうこうしているうちに、外科の主治医(教授陣)の間で、「朝とんでもなく早く回診しているレジデントがいるぞ」という噂が出て、それ以来、私への評価が高まった。プレゼンテーションもしっかり出来るようになり、2年目のレジデントへ進むことが出来た。当時ハワイ大学の外科は1年目が18人で最後に残れるのは2人だけの完全ピラミッド制だった。

2年目の研修も半ばになったころ、アメリカ本土で脳外科の研修プログラムに空きがあるなら、そちらへチャレンジしてみてはどうかという話が教授陣から出た。私が過去にニューヨークで神経病理の専門医になっていることを考慮しての意見であった。脳外科は一般外科よりもずっと入門が難しいと考えられていたので、無理だろうと思いながら、アメリカ本土の脳外科プログラムへいくつか問い合わせの手紙を書いた。

驚いたことに本土の大学の脳外科より、3年目のポジションがあるから面接に来ないか、と返事が来た。 こうして30代になってアメリカに残る最後の奴隷制と比喩されるほどの一般外科の苦しいインターン研修を始め、その後、運良く当時の第一希望であった脳外科をアメリカ本土で研修することになった。しかし、脳外科の3年目のポストをもらって移籍したのはよいが、ここでまた大変な目に会うことになる。

神経病理のことはある程度知っていても、臨床の脳外科は何も知らないのに3年目の位置からスタートである。他のレジデントから格好のいじめの対象になってしまった。脳外科は大きな大学病院でも年間二人しか採用できない制度になっており、少ないレジデントで全病院の入院患者、手術、外来、救急を行っている。

脳外科の勤務1日目、朝6時に脳外科ICUでレジデントの回診からスタートする。このとき私はいきなりチーフレジデントから「君は今日オンコール(当直)だ」と言われてしまった。そこで後に渡された入院患者のリストの長かったこと、今でもはっきり覚えている。コンピューターで印刷された用紙にぎっしりと患者名が書かれてあり、それが3ページもあったのである。

入院患者数にして60数名、その中でも10名は脳外科ICUの患者であった。この大学の脳外科はアメリカでも有数のプログラムで、患者の数が多かった。この60名以外にも、救急外来、他科からのコンサルテーション、Trauma Center(外傷センター)という別の建物があり、そこでは夜な夜な、銃で撃たれた人が担ぎこまれてくる。そうした患者も基本的に一人で診なければならない。

ハワイ大学とは桁違いの患者数と忙しさで、私にはとても無理だと思い、1週間後、ハワイ大学のチーフへ連絡した。

「こちらのプログラムはとても自分に向いてないので、またそちらへ戻ってきてもよろしいでしょうか?」と聞いた。 「う〜ん、それは困ったね。追って文書で連絡するので、もう少し待ちたまえ」という返事であった。

一週間後に来た手紙には、「君が戻って来ても、もうポストは用意できない」と 言うものであった。他に行き場をなくした私は、心を入れ替え、必死の思いで、脳外科の研修を続けることとなった。その後4年半という研修期間の最短記録をもって、脳外科のチーフレジデントを修了した。

当時アメリカでは脳外科と形成外科は入門の難易度で1,2位を争う状況で、脳外科にいる自分は手術も好きだし決して不幸ではなかった。しかし、脳外科手術を受けた術後の患者の状態の重篤度(ときには死にいたる)にどうしてもついていけず、かなり辟易して、研修終了後の進路でいろいろ悩むことになった。

結果としてその後形成外科へ行くことになるのだが、私の場合、病理、一般外科、脳外科、そして形成外科と、やはり、アメリカで10年の歳月をトレーニングに費やした。10年という期間は確かに長いと思うが、わたしもそれが無駄だったとは思わない。

ここでアメリカの形成外科専門医過程のシステムについて述べる。アメリカでは形成外科医は単なる専門分野でなく、一般外科などの他の外科の専門分野の研修を3〜5年間(人気の高いプログラムでは5〜7年)かけて修了したものが応募できる、超専門分野としてとらえられている。

多くの形成外科医は五年間以上の一般外科を修了してから形成外科研修を始める。アメリカでは形成外科の研修課程は、様々な外科の専門分野から入門できるようになっている。私も脳外科の全過程を修了後にUCLA(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校)の形成外科に入門した。

形成外科のレジデンシー(専門医過程)が修了後は、全米レベルでの筆記試験、そして開業あるいは大学勤務医となる。 その後アメリカで自身が形成外科的治療を施した患者の症例報告が作成できると、口頭試問を受けられる。この口頭試問受験資格に見合った症例数を集めるのが至難で、通常数年の開業期間が必要となる。

その口頭試問に合格してはじめて「アメリカ形成外科専門医」と名乗ることが許される。このようにアメリカでは形成外科専門医になるには、長い年月の過酷な研修と地道な臨床の積上げが不可避である。

わたしは、こうして2000年にようやく念願のアメリカでの形成外科研修を修了し、翌年、アメリカ形成外科専門医試験に合格した。カリフォルニアとニューヨークでも5年以上にわたって開業した。その後、日本からアメリカ国籍に帰化し、名前がカタカナの「クレ カツヒロ ・ ロバート」となった次第である。


クレ カツヒロ ・ ロバート
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